窓の外にはあかり一つない夜。午前三時まで話をしていると、話すつもりでは無かったことを話してしまう。たとえ酒に溺れていなかったとしても。無意識に体中に溜め込んだ夜気を吐き出そうとして、つい一緒に出てきてしまうみたいに。景色の悪いホテルの一室。淀んだ空気。
「この瞬間に生まれ変われるとして、最後にひとつだけ物を持っていけるとしたら、何にする?」
白いシーツに包まれて、数美さんが聞く。彼女は結婚していて、5歳になる子どもが居る。彼女は29歳で、僕は24歳で、簡単に言うと僕たちは不倫していた。もう少し複雑に言うと僕たちは仲良しだった。
窓の外が、まるで台風みたいな風の音に溢れている。轟々と、家が飛ばされてしまいそうだ。まだ冬なのに。
「質問がよく分からないな。生まれ変わるってどういうふうに?」
数美さんは宙に言葉を浮かべるように、少し見上げてくるりと指で円を浮かべながら答えた。
「ベニクラゲみたいに、だよ。ある日君がベニクラゲみたいになる。身体が小さくしぼんで、君の記憶はバラバラになる。テロメアが再生して、君は再び真っ白な人間として生まれる。その次の世界に、今君が持っているものをひとつだけ持っていけるとする。神様か博士か、偉い人の気まぐれで君は赦された」
今日僕たちはかごしま水族館でそれを見た。ベニクラゲ。かごしま水族館のそれが2001年に若返り現象を起こしたことが確認されている。すべての生き物は固有の染色体を持ち、それを設計図に細胞を分裂させて身体を維持しているが、分裂を繰り返すうちに染色体のテロメアという部分がすり減り、老化がおきる。ベニクラゲはそのテロメアの再生をやってのける数少ない生き物だ。死んだ後、身体が縮みポリプという幼体に戻り、再び蘇る。なぜそのような性質を持つようになったのかは、まだ解明されていない。生存競争を勝ち抜いたものが、再び生を受けると言う面白い仕組みだ。入れ替わりの激しい種だから意味があるのかも知れない。
小さく袋状になり、染色体を治しながら水中でくるくる回る自分の姿を想像した。想像する僕の横で数美さんも身体を転がせながら歌うように続ける。
「溶媒の中で、最後の記憶をバラバラにしながら、それでも君は生まれ変わる本能の喜びに包まれている。手足は収縮し、君は小さく丸くなって、記憶の全てを無くし、代わりに新鮮なかいわれ大根のようにみずみずしい、新品の染色体を手に入れる。そしてねむりながらゆっくり、ゆっくりと新しい身体を作り始める。新しく生まれる君はどんな環境で誰に育てられるか分からないけれど、今君が持っているものの中で、持ち運べるものを何かひとつだけ持っていっていいと言われた。さて、何を持っていく?」
少し考えたが、あまりピンとこない。
「……難しい質問だね。例えば高価な物とか、有益な情報とかかな? 今大切な物を持っていっても、記憶を失った新しい僕にはどう大切かが分からないかも知れないからね」
数美さんはふむふむとうなずき、合いの手を入れてくれる。
「それでもいいだろうね。銀行の預金通帳、とかでもいいよ」
残念、僕はフリーターなので大して預金はないのだった。これは本当に残念……。では、僕の持っている最も価値のある物とはなんだろう?
「PCのデータを含めて一式とかね。情報を何もかも詰め放題」
それでは僕は再び悪い人間になってしまう。あんなに楽しい玩具を与えてしまったら、僕は再び堕落の一途を辿るだろう。今の僕にとっては大事だが……。忍びない。
僕の持っている、価値のあるもの。僕は自分の頭の中のおもちゃ箱をひっくり返して探す。そしてあまりに何もないことにあきれ返って、しかも悪いことに見なくてもいい過去を見てしまう。それは昔大事にしていて、いつの間にか大事じゃなくなってしまった、後ろめたい宝物。少し不貞腐れた子どものように、言わなくてもいいことを語りだしてしまう。部屋の湿気が頭に混じって、想像力が不安定な回転を始める。
「僕は、今きっと一番いらないものを持っていくだろうね」
ふむ、と小首を傾げて数美さんが聞いている。
「新しく生まれる僕には、自分なりに新しいことをして欲しい。今僕に価値がある物はあげない。本やCDだとか、共通の価値観もあげない。その代わりにいらないものをあげる」
それはなんだい、と数美さんが僕の顔を覗き込んだ。黙って僕が話すのを聞いてくれる合図だ。頭の中である程度の筋道をたててから、僕は話し始めた。
「僕が大学生の頃、付き合っていた女の子がいた。小さくて、髪の長い女の子だった。付き合っていて1年を過ぎたくらいだったかな、その子が急に『指輪を買って欲しい』って言い始めたんだ。
その少し前には1周年のお祝いをしたばかりだったし(もちろん、プレゼントもしっかりした)、僕は指輪に興味が無かったから、僕はまた今度にしよう、と提案した。そうしたら女の子は、理由を並べ始めた。『同じクラスの友達が、彼氏とお揃いの指輪を買ってきて、自慢してくるの』って言ってね。
僕は怒った。僕がそのすぐ前に送った1周年のプレゼント、ブローチと人形だったかな。あれは何だったんだ? 二人の記念にはならなかったのか? 君は友達と対抗するために指輪を買わなけりゃいけないのか? 僕は友達の彼氏と比べるために居るんじゃない。付き合って始めて位に本気で怒ったんじゃないかと思う。少し悲しかった。
彼女は泣いたんだ。それから『ごめんなさい』って言った。でも、彼女の夢だったらしい。誰かと付き合う人とは、お揃いの指輪を着けたかったって言うんだ。
あっさり指輪を買うことになった。それならいい。他と比べるんじゃなくて、単純に欲しいと思うんだったら、買うだろう。想いが蔑ろにされていないなら、それは価値のある指輪だ。僕はアクセサリーをあまり着けない方だから、着けないこともあるかも知れない。それでもいい? なんて言ったりした。彼女は本当に喜んでた。きっと物が欲しかったんじゃないんだろう。同じものを持っているという事実が欲しかったのだ。
選んだ指輪は、決して高価なものではなかった。それでも当時の僕にとっては精一杯のものだった。一つで2万円位だったとおもう。ペアリングで半分こしてお金を払った。当時の僕のバイトの月の半分くらいのお金だったかな。精一杯の値段だった。彼女は『ずっと着けるね。大事にする』と嬉しそうに言ってた。僕も満足した。童話みたいに無邪気だった。それからずっと幸せに暮らしたそうです。
もちろん多くの恋人たちがそうであるように、僕たちは結局は別れることになった。彼女が愛想をつかして連絡が無くなり、僕が別れを切り出した。僕は彼女のことをまだ好きだったと思う。でも互いに苦しんでいて、遂に手を離した。物の貸し借りをしていて、いつか返そうと言ったまま、連絡を取っていない。どちらとも、連絡を取らない方がいいと心のどこかで思ったのだろう。お互いのため――と名付けられた臆病な理由で。
僕が指輪を買って身についたもの。"身近に抱きしめていて、胸の底から安心していた存在が――不意に、1年後でも、50年後でも、ひょっとしたら明日にも――消えてしまうかも知れない"ということ。それを知って僕は少し大人になった。心の全てで安心出来なくなった代わりに。
暫く経って、家で指輪を見つけたんだ。捨てようか迷った。物には罪がない。かといって、他に憎悪する相手も見当たらなかった。自分は嫌いなところだらけだったけれど、憎んでいても無為なだけ。物に罪はないなら、究極的に言えば人間にも罪はないんじゃないかな? どこにも罪がないんだとしたら、どんなに素敵な世界だろうね。
少し話しが逸れたけど、とにかく僕は指輪を捨てることが出来なかった。彼女はもう捨てたかも知れない。彼女は物で想いが維持出来ると思うほど即物的で、僕は想いが物に籠っていると勘違いするほど即物的だった。指輪は今も、部屋の何処かに眠ってる。
生まれ変わる僕には、その指輪をあげる。売っても一文にもならないだろうし、見ても何も感じないだろう。つまり、それを見ても何も感じないことが"出来る"。誰かを抱きしめれば永遠に安心出来るような気持ちになるだろう。僕は生まれ変わった僕とは繋がりが無いから、新しい僕に意味が無くて、今の僕に意味があって且ついらないものを渡す。そして愛が消えてしまった新しい世界で二人は永遠を果たす」
僕は何故こんなことを話したんだろう。きっと……この人だから、全部話したくなったのだ。数美さんもまた、指輪を持っている。どんな気持ちでそれを抱えているかは僕には分からない。今まで話した言葉に刺はないけれど、春の前に吹く強大な風のように、何らかの形で数美さんにダメージを与えているに違いない。でも僕は話してしまいたかったのだ。話さなければよかったとしても。
数美さんはそっと身体を寄せて、僕を抱きしめてくれた。何も言わなかった。身体を重ねながらも、僕たちの心は決して休まらない。やがて何重にもなって訪れる別れを知っているから。それとも染色体が傷ついているからだろうか? 僕は自分がひたすら劣化しているような気持ちに囚われる。
そうして暗い天井を見つめながら、二人で言葉も無く眠りにつく。生まれ変われることもなく、明日が必ずやってきてしまうだろう。だから今身を寄せ合うしか無い。
まどろみの中で深海を思う。すべて赦された静寂な世界だ。僕は遠く海面を見上げながら深く夜気と泡を吐いて眠った。
海の底で数美さんが呟いた。
くりかえすよ。
生まれ変われなくても、別れるときの悲しさだけは新しいんだよ。
呟きはやがて嗚咽に変わって。まるで海の底で苦しんで泡を吐いているみたいで。僕は身体に熱い息を受ける。絞るような声は暗がりに消えていく。
クラゲになれたら、どんなに楽だろう。終わりもきっと本能の喜びとして迎えることができるだろうに。
今日一晩、泡の中で見る夢。再生成クラゲ世界。